春ちゃんのひとりごと
歴史の視点

No.25    (西南の役)    2021/5/20

「西南戦争」とも呼ばれる、明治10年(1877年)の新政府に対する士族の反乱の中でも最大規模のもので、西郷隆盛を盟主として起こった日本国内での最後の内戦です。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などと比べると、有栖川宮、三条実美、山県有朋、黒田清隆、大山巌、谷干城などの政府軍約7万人と、西郷隆盛、村田新八、篠原利秋、平川惟一などの反乱士族約3万人の交戦で、それぞれ6000〜7000人の戦死者を出しました。
明治政府は明治9年(1876年)に廃刀令を発布し、帯刀、俸禄の支給という旧武士の最後の特権を奪い、それに対する士族の反乱を誘発したのです。
植木の戦いでは官軍、乃木希典の率いる第14聯隊旗が薩軍に奪われました。先込め式のエンフィードル銃に代わる後装式の官軍のスナイドル銃は銃槍を付けたまま射撃が可能なため「田原坂の戦い」では威力を発揮し、最後は砲弾の無くなった薩軍の敗戦となります。熊本鎮台司令長官、谷干城の護る熊本城も2月19日11時40分の出火(失火説、放火説あり)により焼失しました。
最後は鹿児島の城山に陣を構えた西郷ですが、新政府軍に囲まれ、徹底的な集中放火を浴び、ついには9月24日、別府晋介に自らの首を落とさせました。
征韓論で西郷隆盛と対立した大久保利通は幼馴染みの親友でしたが時代の流れに翻弄され、島田一郎を始めとする6人の不平士族によって惨殺されるのです(紀尾井坂の変)。


No.24    (井伊氏の歴史)    2021/4/8

井伊氏は遠江国井伊谷を本貫とする氏族で中世には500年間この地で国人領主として栄えました。南北朝時代、井伊道政は遠江介に任ぜられ井伊介と称しました。 南朝方として挙兵、井伊城にて尹良親王は生まれたと言われています。桶狭間の戦いで井伊直盛は義元に従い討ち死にしました。直盛の子、女城主と言われる井伊直虎が家督を継ぎましたが勢力は大きく衰退し井伊谷と所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われました。 天正3年(1575年)、直親の遺児、井伊直政は桶狭間の戦いで先鋒を任され勝利した徳川家康を頼り、多くの武功をたて、小牧・長久手の戦いでは「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられていましたが、関ヶ原の戦いでは島津軍を深追いし火縄銃で撃たれ負傷しました。佐和山に18万石を与えられましたが、2年後の1602年には死去しています。直政の死後、子の直勝は1604年彦根に築城しますが、幕命によって弟の直孝に藩主の座を譲りました。 井伊家は譜代大名筆頭として江戸時代を通じて直澄、直該、直幸、直亮、直弼と五代、大老職となりました。 江戸時代末期の藩主、井伊直弼は老中、阿部政弘の死後、大老となり将軍後継問題では南紀派を後援し一橋派への弾圧である「安政の大獄」を行い「桜田門外の変」で暗殺されました。 明治17年(1884年)には井伊氏は伯爵となり華族に列しました。最後の藩主、直憲の孫、井伊直愛は彦根市長を9期にわたり勤めました。現18代当主の井伊岳夫(直岳)氏は市役所勤務、彦根城博物館の館長です。


No.23    (本能寺の変、その後)    2021/2/12

本能寺の変(1582年6月2日)の11日後の6月13日に勝龍寺城の南側一帯で光秀軍と秀吉軍が激突しました。「山崎の戦い」です。
秀吉は6月3日に本能寺の変の報を入手し、4日に毛利軍と和議を結び、5日から徹兵し、7日に姫路、11日に尼崎に達しました。「上様(信長)は生きている」と摂津衆に思わせ、高山右近を始めとする摂津衆の多くを秀吉軍の味方しました。
名目上の総大将を織田信孝とし信長の弔い合戦としたのです。
細川藤孝、忠興父子は「喪に服する」として剃髪し中立の構えを見せました。(奥丹後の領主、一色氏は光秀に味方したので細川氏は軍勢を動かせなかった) 筒井順慶は配下を山城に派遣していましたが、秘密裏に秀吉に加担することにして9日迄に大和郡山城で籠城の構えを見せました。
両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで対陣しました。秀吉軍は光秀軍の2倍以上の軍勢があり、勝龍寺城に逃げ込んだ明智軍には兵の脱走、離散が相次ぎその数は700余までに減衰しました。光秀は夜に紛れ勝龍寺の北門から脱出し、坂本を目指しましたが途中、小栗栖の藪で農民の落武者狩りに遇い殺害されたと言われています。肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には光秀は本能寺の変後、参内し、征夷大将軍の宣下を受けたと書かれており、秀吉は直接光秀を討つことができなかったため、落武者狩りの農民に討たせたことに話を捏造したと思われます。
秀吉は探し出した光秀の首を梟首し、6月16日に明智一族討滅を宣言しました。
光秀の首は見物人がよく確認できない高いところに晒されたと言われています。また、「太田牛一旧記」には小栗栖を十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたと書かれており、最期と悟った光秀は自らの首を毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれと言い残したと書かれています。
また、美濃国中洞まで落ち延びた説があり、姓名を荒深小五郎に変え生きながらえたとも言われています。
南光坊天海として生きたという話もありますが、天海は14歳で下野国の粉河寺で天台宗を学び比叡山や園城寺などで学を深め元亀2年(1571年)比叡山焼き討ちに遇い甲斐国に移住しており、本能寺の変(1582年)以前に存在が確認されており光秀が天海である可能性はないのです。


No.22    (麒麟は来たのか?)    2020/12/13

麒麟は古代中国の想像上の聖獣です。牡(オス)を麒、牝(メス)を麟と言います。牝には角がありません。麒麟は仁徳のある王者や聖人がこの世に出現したときだけに人の目に触れるという伝説があります。
明智光秀は美濃、土岐氏の子孫で、親の代に斎藤道三、義龍親子の争いに巻き込まれ土地を追われ、各地を流転する中、越前の朝倉氏、将軍足利義昭、織田信長に仕え、朝倉攻め、比叡山焼き討ち、石山戦争と戦に明け暮れ自らが蹂躙した坂本の地を与えられ城を築きました。また、本能寺の変の7年前1575年から丹波攻めを始めました。1573年信長が足利将軍を追放すると丹波では八木城の内藤氏と京北、宇津城の宇津氏が反信長を貫き、二氏を成敗するように命じられた光秀は丹波の国衆の小畠氏や並河氏に対して協力するよう朱印状を送り篠町山本の宇野氏、荒塚山の近藤氏を伴い余部城の福井氏を襲いました。また、波多野氏の八上城、萩野氏の黒井城を攻め落としました。1575〜1579年の丹波攻略は終結しますがその間、光秀の妻、煕子は亡くなり光秀も病魔に襲われますが何とか丹波に亀山(亀岡)城、福智山(福知山)城を築きました。
当時の習わしとして奪った土地がその武将に付与されるのです。信長から命じられたミッションに東奔西走し、挙げ句は秀吉の中国攻めの援軍を命じられ、光秀の胸中はどの様な思いがあったのでしょうか。ついには本能寺を焼き、自らも秀吉に討たれ、戦国の世に身をおいた宿命に何を悟ったのでしょうか。
麒麟はどこに来たのでしょうか。


No.21    (観世音菩薩)    2020/11/7

古いサンスクリットの「法華経」ではアヴァローキタ-スヴァラ(avalokita-svara)となっており、「観察された(avalokita)」+「音声(svara)」と解され、「観世音菩薩」となります。『般若心経』の冒頭に登場する菩薩です。浄土経では阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されます。
観音像には「聖観音」の他、密教の教義により創られた十一面観音、千手観音など「変化観音」と呼ばれる様々な形の像があります。
古代インド研究の仏教学者、岩本裕氏は観世音菩薩はインド土着の神であると言っています。シヴァ神の妻パールヴァティーの妹が、ガンジス川の女神ガンガーで、祖先の霊を浄化するため聖水を地上にもたらしたとされています。
私が知る限りでは観音様を祀る場所には清水が湧き、山岳仏教の隆盛により、山に清水が湧く場所に観音堂が作られ祀られているように思います。奈良の二月堂、京都の清水寺、滋賀の三井寺等々。
インドから中国を経て日本にたどり着いた時には様々な役目を負わされた水の守護神はガンガーと同じく閼伽(水)の入った水瓶を持ち、生命の源である水を衆生にあまねく注ぐのです。


No.20    (推古天皇の宮)    2020/10/4

592年(崇峻5年)12月、豊浦宮に即位した推古天皇は以後2世紀に渡って頻出する女帝の最初です。母親は蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)で、用明天皇とは同母となり、父親は欽明天皇です。蘇我馬子とは姪と叔父の関係になります。炊屋媛(かしきやひめ)と呼ばれ、馬子とは歳の差が3つでした。
敏達天皇の皇后として尊重され、崇峻天皇を葬った馬子は皇位継承争いを避けるため炊屋媛を即位させました。
飛鳥川左岸の明日香村豊浦の地です。今の豊浦には豊浦寺を引き継いだ向原寺があり、堂塔跡が発見されています。
治田天皇とも呼ばれる推古天皇は新宮として小墾田宮(小治田宮)を造営しました。
604年、十七条憲法の制定、607年、第二回遣隋使の派遣など重要施策が行われました。雷丘南麓の雷内畑遺跡からは6世紀末~7世紀初めの苑池と石敷の一部が発見され、雷丘東方遺跡からは「小治田宮」と墨書された土器が発見されています。
現在この地には稲田の畦道に曼珠沙華が咲き誇り、目印の樹木が遠望の畝傍山と共に歴史を物語っています。
「飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ」


No.19    (長江から大和へ)    2020/9/6

中国史における春秋戦国時代はBC770年~BC221年ですが、BC473年、越王の勾践に攻められ、呉王の夫差は自害し、呉の国は滅びました。
長江の下流域から稲作を伴って呉人は海路亡命し、倭国へ漂着し、古代海人族として知られた安曇族として筑前国糟谷郡安曇郷(現在の福岡市東部)に定住しました。
この龍蛇信仰の一族は銅剣の文化圏を形成し、出雲国においては、荒神谷遺跡から銅剣358本が出土し、加茂岩倉遺跡からは銅鐸39口が出土したことから私考しますと、九州王朝文化圏の銅剣と大和王朝文化圏の銅鐸が山を隔て約3.4kmの地に埋葬されていたということは、龍蛇神信仰の海神族と、熊鳥(八咫烏)信仰の天孫族の接点として、九州→出雲→播磨→大和と移って行き、三輪山麓に定住し御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)=崇神天皇の磯城瑞籬宮(シキノミズガキノミヤ)が築かれました。
三輪山麓に鎮座する大神神宮は古代磐座信仰と、海神族の信仰する龍蛇神の信仰が合体したもので、拝殿前の注連縄(シメナワ)は蛇体そのものです。


No.18    (蛇神の系譜)    2020/8/14

馬王堆漢墓(紀元前2世紀)から出土した帛画には人頭蛇身の女蝸が描かれています。日本の宇賀神も人頭蛇身で農耕の神として崇拝されています。インドから伝来した仏教の神である弁天と習合し、その像は人頭の蛇がとぐろを巻いた形で現されます。
縄文時代から弥生時代を通じて倭人の間では、水の神、稲の神、田の神としての蛇神信仰が存在します。奈良の三輪山信仰の起源は縄文時代までに遡ると言われ、三輪山に祀られている大物主命は蛇神で、日本列島に根を下ろした稲作文化が長江の下流域(良渚)から伝播したのがうかがえます。
西暦57年、後漢に朝賀した倭奴国の使者は「自分たち倭人は太伯の末裔である」と告げ、光武帝より「金印」を賜りますが、金印には倭国を象徴する蛇のデザインが鈕に刻まれています。
女蝸と大蛇信仰は中国西南部のミヤオ族やヤオ族の神話にあり、人類創世の神として道教に取り込まれ、弥生時代に日本に伝播し亀甲と形状が類似することから亀卜に用いられ、シャーマンや大王が祭祀しました。
倭国では孝昭天皇の時代、長江下流域「呉」の国の皇子が民を率いて、火の国、菊池、野間口の迫間川、神来(おとど)=山門郷に入りました。
このように西域→長江下流域から伝播した稲作と蛇神の文化は日本列島に分播し、今もなお信仰されているのです。


No.17    (古事記とラーマーヤナ)    2020/7/1

古代インドの長編叙事詩に『ラーマーヤナ』があります。この叙事詩はラーマ王子が誘拐されていた妻のシーターを奪還すべく大軍を率いてラークシャサの王、ラーヴァナに挑む様子を描いています。シーターは燃え盛る火によって生児の血統の正しい事を示します。
我が国の『古事記』では天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と大山祇命の娘、木花咲耶媛(コノハナサクヤヒメ)との関係においても出産時に身の潔白を証明するため、産屋に火を放ち火照命(火明命)、火須勢理命、火遠理命を出産します。
火照命は尾張氏の祖、火須勢理命は阿多隼人の祖、火遠理命は天皇家の祖となります。
奈良時代に伝来した『舞楽』の中には、隋(中国)、天竺(インド)、林邑(ベトナム)系のものが含まれ、当然『ラーマーヤナ』の影響があったと思われます。『古事記』の編者がこの叙事詩を参考にしたかも知れません。


No.16    (日本を襲った疫病)    2020/6/22

日本における疫病の初見は第10代、祟神大王の時代に遡ります。倭圀に疫病(天然痘)が流行し、人口の約半分が死に絶えました。三輪山周辺には崇神大王の都、磯城瑞籬(しきのみずがき)宮、現在の桜井市金谷や、垂仁大王の都、纏向珠城(まきむくたまき)宮、現在の桜井市穴師等が築かれました。纏向遺跡からは馬具が出土しており、大陸との交流が伺え初期の古墳も築造され、人々が集い人口の密集した地域には感染症が流行しました。当時は大和川沿いに藤井寺、堺ヘと巨大古墳が造られました。大陸から大和ヘ入る使節に対してのアピールの意味もあり、堺の大仙古墳は当時の人々が目を見張る物だったでしょう。
飛鳥時代になると仏教が伝来し、さらに大陸(百済など)との交流が盛んになり、第30代、敏達天皇、31代、用明天皇の兄弟はいずれも天然痘で崩御しました。
用明天皇皇子の馬厩皇子、その妃、菩岐岐美郎女、母の穴穂部間人もこの疫病で崩御しています。
治療薬もワクチンもない時代ですので、人々は祈祷やまじないによって疫病退散を祈願しました。第45代、聖武天皇の時代には天然痘が流行し、東大寺を建立し壮大な毘盧遮那仏を造ることによって疫病の退散を祈願しました。
藤原四兄弟を始めとし、政府高官の殆どが病死し聖武天皇の心中としては仏に頼るしか方法がなかったのでしょう。 長い歴史を持つ疫病と私達はこれからも共存してゆくのです。


No.15    (天皇と摂関政治)    2020/5/8

「薬子の変」(810年)で藤原北家支配の足掛かりを作った藤原冬嗣は嵯峨天皇から蔵人頭に任命され「弘仁格式」を撰上し、その子藤原良房は842年仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)を即位させることにより857年には太政大臣に就任しました。(文徳天皇の女御は良房の娘)文徳天皇と良房の娘(明子)の間に生まれた惟仁親王(清和天皇)を9歳で即位させ外祖父として君臨し、「応天門の変」において伴氏、紀氏を失脚させ良房は人臣初の「摂政」に任じられました。良房の死後、養子の藤原基経が権力を継承し、876年清和天皇は皇子の貞明親王(陽成天皇)9歳に譲位させられました。(陽成の母、高子は基経の妹)基経は摂政となります。
一条天皇の時代にも藤原道隆、藤原道長は娘を天皇の女御とし外戚として君臨するのです。
これらの事象は遡ること天智天皇の時代(7世紀)、天智天皇と中臣鎌足との密約で、懐妊した天智の妃を鎌足に下げ渡した折りに「生まれた子が女であれば天皇に差し出せ、男であれば終生天皇の第一の臣として仕えよ…」と。
鎌足の子藤原不比等は天智天皇の皇胤として、その子孫は長く天皇家に仕えることになるのです。


No.14    (日本仏教の変遷)    2020/2/4

平安仏教の聖地、比叡山で最澄が開いた天台宗は、空海の真言宗、「東密」に対して「台密」と呼ばれ「薬師如来」を本尊とします。
浄土宗の開祖、法然、浄土真宗の開祖、親鸞、臨済宗の開祖、栄西、曹洞宗の開祖、道元、日蓮宗 の開祖、日蓮など若い日に比叡山で修行しています。
平安時代、武士の台頭で治安が乱れると「末法思想」が蔓延し、「阿弥陀仏」に救済を求める浄土教(阿弥陀教)が公家や庶民の間でも信仰され各地に阿弥陀堂が造られました。
平安末期には興福寺、延暦寺、園城寺、東大寺などが武力集団を持ち、朝廷や摂関家に対して強訴を繰り返しました。
また、戦国時代には大勢の信徒を戦に駆り出し、死者の山を築きま した。
釈尊の悟り「大宇宙の万物は全て互いに助け合い共存することによって生 きている価値がある」と言っていますが、また一方で、「自分の説法は方便(人を真の教えに導くための手段)だ」とも言っています。
現在の日本仏教は私たちに何を悟らせてくれるのでしょうか。


No.13    (空海の密教は)    2019/11/10

空海は774年、現在の香川県善通寺市で佐伯直田公と玉依 の三男として生まれました。
幼名は「真魚」(まお)といい 母方の叔父と言われている阿刀大足から漢語、詩歌などを 学びました。
阿刀大足(あとのおおたり)は桓武天皇の皇子 達の教育係を務めていた人物です。
31歳で遣唐使船で唐に渡り、長安で青龍寺の恵果和尚より 教えを受け、33歳で帰国しましたが、3年間、筑紫の観世 音寺に留めおかれ、809年に朝命によって上京し、高尾山 寺に入住しました。
嵯峨天皇の帰依を受け東寺をたまわり43歳(816年)には高野山を賜りました。
空海が学んだ真言密教とは何だったのでしょうか。
「密教」では老若男女誰でも修行により、この世で「悟り」 を開き、成仏できると説きます。
「悟り」は「最高に幸せな こと」とされ、「成仏」も死ぬことではなく「何者にも依存しない、何にも煩わされることのない安寧な境地のこと」 で、「自分が今、本当に幸せであるように生きること」とも 解せます。


No.12    (桓武天皇の世紀)    2019/10/1

白壁王(光仁天皇)と高野新笠を父母とする山部王(桓武天皇)は本来であれば白壁王皇后の井上内親王と、その子、他戸親王がいるために次期天皇になれる身分では ありませんでした。
藤原良継や藤原百川の陰謀により井上皇后と他戸親王が廃され、渡来人の血筋を持つ高野新笠が皇太夫人と称され、山部王は皇太子となります。
藤原式家の力が強まり、藤原良継の娘、乙牟漏を妃に迎えます。
781年(天応元年)山部王は桓武天皇として即位します。
南都六宗のしがらみや反対派の勢力から脱出するため長岡に都を遷しますが、藤原種継暗殺 事件や母親である新笠の死、皇后、藤原乙牟漏の死、 妃の藤原旅子の死、都を襲った大水害などにより、さ らに都を葛野の地に遷し「平安京」としました。最澄 を唐に派遣し、新しい仏教の聖地が比叡山に「延暦寺」 として花開き、日本仏教の古地として君臨するのです。


No.11    (聖武天皇と毘廬遮那仏)    2019/7/22

聖武天皇の度重なる遷都は「災いが重なるのは都の位置が悪い」と考えたからです。
また、南都六宗の1つ、華厳宗の本尊、毘廬遮那仏を建立しました。
毘廬遮那仏とはサンスクリット語のVairocana (ヴァイローチャナ)の音訳で、「光明遍照」を意味し、ゴータマ・シッダールタを越えた、宇宙仏とされています。
東大寺の完成までの間に聖武天皇の皇子が17歳の若さで亡くなり、耐えきれなくなった天皇は阿倍内親王に譲位しました。
完成した大仏の開眼供養は天平勝宝4年(752年)4月9日に執り行われました。
東大寺の大仏殿は2度の兵火で焼かれ、復興され、現在の大仏殿は江戸時代の元禄5年(1692年)に建立されたもので創建当時よりかなり縮小されています。
現在の大仏の座高は約15m、顔の幅は3.2m 、目の長さ約1m です。
大仏建立の指揮を執ったのは行基ですが開眼供養を待たずして亡くなりました。


No.10    (天智天皇陵)    2019/5/28

御廟野古墳と呼ばれるそれは天智天皇陵とされていますが、果たしてそうでしょうか。
現在はそうは見えませんが、本来は八角墳であったと言われています。
上円下方墳で、下方辺長約70m、上円対辺長約46m、高さ8mの立派な古墳です。
天智天皇后の倭媛王(古人大兄皇子の娘)の挽歌に「青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも」とあり、天智天皇が崩御した時の挽歌です。
木幡の山に狩りに出かけたまま帰って来ない天皇の霊を見た歌とも思えます。
今、天智天皇の陵墓がある地域は、天皇より先に亡くなった中臣鎌足の邸宅があった場所です。
また、不比等が祀った厩坂寺→興福寺の前身、山階寺のあった場所です。
山階寺は鎌足夫人の鏡女王が669年に鎌足の為に創建した寺です。
大織冠のかけらが出土したということで阿武山古墳(高槻市)が鎌足の墓とされていますが、疑問が残ります。
私見ですが、天智天皇の陵は木幡山にあったものを近江京の近く(大津市)に移したでしょうし、鎌足の邸宅の近くにある御廟野古墳は中臣鎌足の墓で、天智天皇陵は壬申の乱(672年)により近江京もろとも破壊され、現在も特定されていないのです。


No.9    (女帝の時代)    2019/5/22

豊御食炊屋媛(とよみけかしきやひめ)(推古天皇)は、29代欽明天皇と蘇我堅塩媛(きたしひめ)の間に生まれた33代の女帝です。
堅塩媛は稲目の娘ですので蘇我馬子は母方の叔父になります。
34歳で未亡人となり、馬子の擁立により我が国最初の女帝となりました。
明日香の豊浦に小墾田宮(小治田宮)を構え、馬子、厩戸皇子が実務を担いました。
また、馬子の子、蝦夷の時代には34代舒明天皇が崩御すると、その皇后、宝女王(皇極天皇)が即位するのです。
中大兄(天智天皇)、大海人(天武天皇)の母親です。
明日香の板蓋宮が皇居です。いずれの女帝も蘇我氏の擁立によるもので、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、「乙巳の変」にて入鹿が暗殺され、その翌日に弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位が譲られます。日本史上、初の譲位です。


No.8    (厩戸皇子)    2019/4/14

奈良時代の初め(養老4年=720年)に『日本書紀』が編纂され、その中に聖徳太子(厩戸皇子)のことが記されています。
第31代、用明天皇と穴穂部間人皇女(欽明天皇皇女)の第1皇子として生まれました(574年)。
崇峻天皇が蘇我馬子の謀略により東漢直駒に暗殺され、推古天皇が即位すると皇太子に立てられました。太子の出生については彼の厩戸(うまやど)という名からキリストのように馬小屋で生まれたという伝説がありますが、彼の出生の地が厩戸(うまやこ)であったためと思われます。
推古9年(601年)、太子が斑鳩宮を興したと記され推古15年(607年)に「壬生部」(みぶべ)の設置が記され、壬生=乳部とは幼い皇子、皇女の養育を意味し壬生部は厩戸皇子の身内の者を養うために制定された貢納、奉仕の集団と思われます。
太子は推古30年(622年)に崩御します。
太子の妃も同時期に亡くなっています。
太子の墓は南河内郡太子町の叡福寺境内とされますが、私見では斑鳩寺(法隆寺)裏にある藤ノ木古墳だと思います。
発見された人骨は男女のものと思われ(1体には女性がつける足玉があった)、法隆寺の釈迦三尊像の台座には墨書で、「陵に埋葬された者の御霊を弔え…」とあります。


No.7    (記・紀に隠されたもの)    2019/2/13

『古事記』(ふることぶみ)は、太安万呂が編纂し、元明天皇に、献上されました。
また『日本書紀』は舎人親王(天武天皇皇子)らの撰で、720年に完成しました。
神代から持統天皇の時代までを漢文、編年体で記述されています。
『古事記』には歴史の勝者である天皇家に敗れた者たちの憐れみを紡ぎ、古代倭國には天皇家以外の勢力があったことを書き残しています。
『日本書紀』はそれまでにあった歴史書、『天皇記』、『國記』の焼失にともない、新な歴史書の必要性から、天武天皇が詔を発し編纂されました。
蘇我氏の横暴を記し、天皇家の正統性を強調された歴史書に仕上げられています。
また、天智天皇の皇胤とも言われる藤原不比等が深く関わっていたことが読み取れますが、その匂いが見事にかき消されています。


No.6    (中大兄と大海人は…)    2019/2/13

38代、天智天皇(中大兄皇子)と40代、天武天皇(大海人皇子)は舒明天皇と宝女王(皇極天皇)の皇子とされていますが、『日本書紀』には天武の生年を確定させる記述はありません。
天武が『記・紀』の編纂を指示したのにもかかわらず、天武の歳は隠さているのです。
何故でしょうか。
天武の生母とされる宝女王は、舒明天皇の后となる以前に、用明天皇の孫、高向王と結婚していて、漢皇子をもうけています。
この漢皇子が天武天皇だとすれば生年が隠されているのが頷けます。
壬申の乱(672年)で勝利した大海人皇子は、近江から飛鳥に都を遷し、浄御原律令、八色姓の制定、冠位制度の改定などを行い、中央集権政を進めました。


No.5    (蘇我から中臣(藤原)へ)    2019/2/9

33代、推古天皇、34代、舒明天皇、35代、皇極天皇と蘇我氏の傀儡政権が続く中、ついに皇極天皇4年(645/7/10)、「乙巳の変」により、蘇我入鹿及び、蘇我蝦夷は滅ぼされました。
中大兄皇子、中臣鎌足が首謀者と言われていますが、私見では、軽皇子(孝徳天皇)が黒幕かと思います。
皇極女帝の弟、軽皇子は中大兄皇子と藤原鎌足の支えで、唐の制度を模倣した中央集権国家を築き、戸籍を作り、「班田収授の法」を施行しました。
孝徳天皇が崩御すると、宝女王が再度、斉明天皇として重祚します。
この時代には新羅が唐の援助を得て百済を攻めたので、その救援のため天皇、皇太子自ら九州に出陣しましたが、斉明天皇はその地(朝倉宮)で没し(661)、「白村江の戦い」(663)に 大敗します。
その後、中大兄皇子は668年に即位し、天智天皇として「近江大津宮」に都を構えます。
鎌足は死ぬ直前に「藤原」の姓と「大織冠」の位を賜りました。


No.4    (継体天皇の系譜)    2019/2/8

25代、武烈天皇は世嗣ぎがなく世を去りました。
大伴金村ら郡臣が協議して、越前の三國(みくに)から「男大迹王」を迎えます。
24代、仁賢天皇の皇女、手白香皇女を皇后とし、尾張目子媛を妃に迎えます。
この時代には、新羅にそそのかされ、反逆を起こした筑紫國造、磐井を討ち平らげています。
継体天皇が崩御し、安閑天皇の時代になると、大伴金村と物部麁鹿火がこれを助け、諸国に数多くの屯倉(みやけ)が設けられ、皇室の財政を充実させました。
29代、欽明天皇の時代になると、物部氏と蘇我氏が対立し、さらに30代、敏達天皇の時代になると蘇我馬子が大臣となり 物部守屋が大連(おおむらじ)として覇権を争い、31代、用明天皇の代には蘇我氏が物部氏を滅ぼします。
権力を持った馬子は32代、泊瀬部皇子(崇峻天皇)をも抹殺してしまいます。


No.3    (天皇(大王)の世紀)    2019/2/4

第10代の崇神天皇は御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)とも言われ、磯城瑞籬宮(桜井市金屋)に皇居を構えた歴史的に実在した最初の天皇(大王)です。
天皇という言葉はこの時代にはまだ無く 、大王と呼ばれていた時代ですが、ここでは便宜上、天皇と書かせていただきます。
おそらく、南部九州から隼人一族を従えて大和に移住した皇祖の一族は、出雲、吉備、尾張の勢力を取り込み、12代、景行天皇の時代には九州の熊襲征伐、東国の蝦夷討伐に出征しています。
16代、仁徳天皇の代から21代雄略天皇の代は『宋書』に倭の五王(讃、珍、済、興、武)として宋に朝貢していた事が記されています。
(420~479年) また、21代、雄略天皇は大泊瀬幼武と言われ、「獲加多支鹵大王」の文字が刻まれた鉄刀が、埼玉県行田市の稲荷山古墳と熊本県和水町の江田船山古墳から出土しています。


No.2    (神々の系譜)    2019/2/2

伊邪那岐と伊邪那美より誕生した天照大神、その孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は神阿多都媛(木花開耶媛)を娶り、山幸彦(火遠理命)と海幸彦(火照命)を生みました。山幸彦は神武天皇の祖父にあたります。
海幸彦は隼人族の祖です。
木花開耶媛の父は大山祇神で、娘の婚儀を祝い、初めて酒を造りましたので、酒解神(サカトケノカミ)とも呼ばれています。三島大社、大山祇神社などで奉斎されています。
京都では梅宮大社で奉斎されています。
大海人皇子(天武天皇)は壬申の乱の後に、伊勢の地に鎮座していた「磯の宮」を天照大神を奉斎する「伊勢神宮」として、自分の娘の大来皇女(オオクノヒメミコ) を斎宮として奉斎させました。
また、尾張の地には、火明命(ホアカリノミコト)を主祭神とする「真清田(マスミダ)神社」が在ります。
大和の地には、大物主大神を祀る「大神神社」があり、出雲の地には大国主命を祀る「出雲大社(杵築大社)」が在ります。


No.1    (新しいコーナー「歴史の視点」)    2019/1/30  

過日、このコーナーに歴史の視点をテーマにして欲しいと言うメールがありましたので、ここで私の意見を述べたいと思います。
今回は「邪馬台国」について。 「三國志」の中、「魏志」の倭人の条に「邪馬台國」と記された国は、女王「卑弥呼」が「鬼道」により支配していると記されています。
248年頃、卑弥呼が死去すると直径が100歩程の墳墓が造られ、奴卑百人が殉葬されます。
その後、混乱が生じ1000人が死に、13歳の少女、「壹與」が女王として擁立され魏に代わて成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢しました。
「日本書紀」には卑弥呼の残影を天照大神や神功皇后に偽装しますが、時代に合致しません。最近、箸墓古墳や纏向遺跡が卑弥呼の墓、卑弥呼の都とか言われていますが、考古学を学んだ人間であれば、それを鵜呑みに受け入れることは出来ません。卑弥呼の時代の墳制、遺物の年代比定からしたら、99.9%女王国は中部九州以北の地、つまり筑後川の上流、矢部川の上流、菊池川の上流、または遠賀川の上流域に存在していたはずです。
この画面上では語り尽くせない山程のデーターがありますが、菊池川流域(山鹿市)に在ります「熊本県立装飾古墳館」を訪ねると面白いものが見られます。
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