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紙芝居風
旅行記

 7世紀半ばから8世紀にかける150年の間に、実に13回の遷都が行われました。
10年少々で遷都を繰り返したことになります。「大王(おおきみ)のくに」から律令国家へと変わる転換期であったとしても、それだけでこれだけ頻繁な首都の引っ越しを説明できるものではありません。
都の跡を見てみようと思いつき、旅を始めました。
都が移り変わった様子や、歴史的背景を考えてみようと思いました。

 遷都(せんと)は、都を他所へうつす(遷す)こと。
反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言うそうです。
都の時代ごとの遷都はその時代の権力者が、自らを護るために 行われたものだと思います。

 飛鳥宮から平安京まで古い都の跡をすべて見て参りました。
天皇の権力が大きくなっていけば、権力者の判断は絶対的なものになり、庶民は従うしかありません。
この時期の遷都は、天皇の価値判断により進められたと考えます。

 都は当然、政治、経済、文化の中心になっていくわけですから、新しい考え方、新しい技術、新しい思想も生まれてくるだろうと考えます。
特にこの時期から広まっていく仏教は、人々の生活の中に深く入りこんだのではないでしょうか。
釈迦は偶像を造ることを良しとしませんでした。
しかし、釈迦の教えを受けた人々は、仏教を布教するためには 偶像を必要としたのでしょう。
最初はストゥ−パー(釈迦の遺骨を納める建物)を造り、次に仏足石 を造ります。 つ
いには釈迦の偶像を造ってしまいました。

 ブログやツイスターやメール、など多くの情報をやり取りする、現代においては、みんなが一つの方向で物事を考えることはありませんが、この時代のリーダーにとってはみんなの考えを一つにすることが大切だったに違いありません。
宗教は、その目的に最適だっのかもしれません。

 正倉院の宝物には日本製品のみならず、中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面などが所蔵され、文化財の一大宝庫です。

 仏教の教えは、はじめのうち、口伝(くでん…口で伝えること)で行われていました。
しかし、むずかしい仏教の教えを学んだり、広めたりするために像や絵、建築などで表現するようになり、芸術として発展していったのです。
日本では魅力的な仏教美術品が作られてるようになりました。
白鳳時代や天平時代には多くの 数の仏像が作られました。
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