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旅行記3

山背恭仁京(740年12月15日遷都)

内裏は木津川中流の山間小盆地,木津川市中北部の瓶原 (みかのはら) の地と推定されます。同 12年平城京より遷都,同 15年には大極殿や歩廊を移建したが,費用がかさみ,ついに造営中止となりました。恭仁京の大極殿を山城国分寺に施入,都の跡はしだいに荒廃していきました。

紫香楽宮(744年1月1日遷都)

滋賀県甲賀市信楽町にある古代遺跡群。国の史跡に指定されています。 奈良時代に聖武天皇が営んだ紫香楽宮(信楽宮/甲賀宮)の関連遺跡群です。
ほとんど、昔の面影は残っていませんでした。

難波京(744年遷都)(なにわきょう、なにわのみやこ)

古代日本において難波(現在の大阪府大阪市)の地に設営された都城です。飛鳥時代に宮が設置された(前期難波宮)が、京の存在は確認されていません。奈良時代に設置された宮(後期難波宮)と合わせて京として実質を伴ったとする見解が有力です。

平城京(745年5月遷都)

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出されました。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられております。

長岡京(784年11月遷都)

奈良から京都への遷都は、桓武天皇に理屈をこねる南都 六宗の僧侶の力が強くなりすぎたために、奈良を逃れて新しい 都を求めたのだと思います。 延暦3年(784年)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能しました。

(長岡京から平安京に遷都した理由)
長岡京に遷都した後に、洪水や疫病が流行した他、桓武天皇の周辺で人が亡くなったり、皇太子の安殿親王が発病したり桓武天皇の妃・藤原旅子、藤原乙牟漏(おとむろ)、坂上又子(坂上田村麻呂の同母兄弟)、更に桓武天皇と早良天皇の母・高野新笠までもが病死していしまいました。 結局たった10年という短い間で、長岡京を嫌い平安京へ遷都をするようになりました。
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