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世界の歴史

No.21    (ウクライナの歴史と現状)    2022/3/11

ウクライナには紀元前8世紀〜紀元前3世紀にはイラン系遊牧騎馬民族の「スキタイ」が暮らしていました。
9世紀後半〜1240年にかけてキエフを首都とした「キエフ大公国(ルーシ)」が栄えていました。10世紀末のウラジーミル1世の時代に最盛期を迎えますが、13世紀の半ばモンゴル(タタール人)のキプチャク=ハンの支配下に入り、約200年間、モンゴル人によって馬や牛のようにこきつかわれました。
1480年、ヴォルガ川支流の水運で力をつけたモスクワ大公国のイヴァン3世によって「タタールのクビキ」から解放されました。
ピョートル大帝(1682〜1725)の時ウクライナはロシア本体の辺境である小ロシアになり、辺境を意味する「ウクライナ」と言われるようになりました。
1917年、ロシア革命を機に独立を宣言しましたが、その後、「ウクライナ、ソビエト戦争」と呼ばれるように戦禍に明け暮れ、第一次大戦、第二次大戦においても多数の国民が犠牲となり、ドイツ占領等による大戦中の死者の総数は700万人とも言われています。
現在のウクライナは、ロシア軍の侵略により戦禍の真っ只中です。火器の勝るロシアの軍隊に蹂躙されています。 ロシアもかって日本が受けた「ABCD包囲網」のような経済包囲網を受け暴発寸前です。NATOの国々もウクライナに武器支援するだけでは何の解決にもなりません。かえって火に油を注ぐ事になります。
どちらにも味方しない第三国が介入し、ウクライナにEU、ロシアのどちらにも付かない中立の立場をとらせるしか解決の方法はないと思います。
中国、インドはロシアに柔軟で、自国の利しか考えていません。米国もロシアからEU諸国に供給されていた燃料資源を自国から供給し、利を得ようとしています。
また、中立の立場をとっていたフィンランド、スウェーデンなどはロシアの脅威にNATO加入を画策しています。 ウクライナのゼレンスキー大統領も自国民の命を大事と思うなら、かっての日本のように「一億玉砕」と先導せずに一刻も早く停戦の道を探るべきだろう。


No.20    (メキシコの歴史)    2021/4/1

メキシコには2万年前の遺跡があり、それ以前から人間が住んでいたと考えられています。BC2300年頃には最初の土器が作られBC1300年頃にはメキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興りました。ネグロイド的風貌の巨人頭像が残されています。
メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に円形の大ピラミッドとして知られる「クィクィルコ」、東方に「テオティワカン」の巨大都市が築かれました。
AD250年〜300年頃にはパレンケやトルテカなどの都市が発展しました。1519年にはスペイン人のエルナン・コルテスを長とする約500人のスペイン人がメキシコ湾に到達し、1521年にはアステカ帝国は滅亡しました。首都のテノチティトランは破壊されスペイン式のメキシコシティが建設されました。スペインの支配が始まるとスペイン人が持ち込んだ麻疹や天然痘などの疫病によって多くの先住民が命を落としたため、アフリカから多くの黒人奴隷が連行されました。
メキシコ独立戦争(1810年〜1821年)やメキシコ麻薬戦争を経て現在に至っています。
現在のメキシコは豊富な労働力があり、中央高原地帯では大手日系自動車組み立てメーカー(日産、ホンダ、マツダ)が新工場建設を行っており、人口は1億1000万人、面積は日本の5倍、現在、日本が注目している国がメキシコとインドネシアで「メキシコ合衆国」に注目しています。メキシコの実態は中央集権国家で州の財政が連邦政府からの分配金や給付金に大きく依存しています。
支倉常長の使節がメキシコを訪問してから400年になりますが、日本と古くて長い付き合いのあるのがメキシコです。しばらくは日系企業のメキシコ進出が続くと思われます。


No.19    (カナダの歴史)    2021/2/12

カナダの先住民は4万年前の氷期にシベリアからベーリング海峡がまだ陸続きだった頃、新大陸に渡ってきたインディアン(モンゴロイド)とされています。西洋人が最初にカナダを発見したのはイギリスのヘンリー7世が派遣したイタリア人探検家のジョン・カボットとセントローレンス川を探検したフランス人のジャック・カルティエです。
16世紀半ばこの地はフランス領となり1642年にはモントリオールにも植民地拠点が創建されました。18世紀には英仏の対立が激化し「北米植民地戦争」が勃発しました。イギリスの勝利で一時的にカナダはイギリスの植民地になりましたが、今でもケベック州などフランス移民が多かった地域はフランス語、ブリティッシュコロンビア州などは英語圏になっています。
南北戦争後のアメリカが産業革命によって急速に発展を始めるとアメリカによるカナダ併合の危機が高まりオタワに連邦首都が置かれました。第二次世界対戦ではカナダは英連邦の一員として参戦し1944年のノルマンディー上陸作戦にも参加しました。1964年には赤白のカエデの葉の国旗を制定し1982年カナダ憲法の成立により真の独立国家となりました。
現在のカナダの国土面積はロシアに次いで世界第2位、首都はオタワ、G7(先進7ヶ国)のメンバーで、現在のジャスティン・トルドー首相は第20代、22代の首相、ピエール・トルドーの長男です。カナダにおいて製造業として規模が大きいのは自動車産業で、オンタリオ州を中心にアメリカと日本の自動車メーカーの製造拠点があります。また、アルバータ州、アサバスカにあるオイルサンドはサウジアラビア、ベネズエラに次ぐ世界第3位の石油埋蔵量を誇ります。同時に天然資源も多く埋蔵されていて、金、ニッケル、ウラン、鉛等が採掘され、特にウランは世界第1位の産出国です。また、農業では小麦(世界シェア6位)、大麦(世界シェア2位)などの生産が盛んです。


No.18    (ブラジルの歴史)    2020/12/3

ブラジルの地に人間が居住したのはアジアからベーリング海峡を渡った人々がBC8000年頃にこの地に到達したのが最古のものと確認されています。この地には原始的な農耕を営むトゥピ族、グアラニー族、アワク族等の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」と名付けられる人々が暮らしていました。
ポルトガル人到来の時点での先住民の人口は沿岸部だけで100〜200万人と推定されています。文書記録を伴う歴史は1500年のポルトガル人の来航に始まり、植民地としてサトウキビの生産や内陸部での黄金の採掘が主な産業でした。
帝政時代(1822〜1889年)を経て、ブラジル合衆国時代(1889〜1930年)を経、ヴァルガス大統領時代、ポプリズモ時代を経て、軍事独裁政権時代を終えて現在に至っています。
国土の面積、人口はいづれも世界第5位で、現在のブラジルの産業は大豆と牛肉はアメリカに次ぐ世界第2位、鶏肉は世界第3位、また鉱工業は自動車、航空機、鉄鋼、石油化学、コンピューター等の分野でブラジルの産業を支えています。
世界最大規模のアマゾン川を有し、近年オリンピックの開かれたリオデジャネイロや、西半球最大の都市サンパウロ、かってブラジルの首都だったサルバドール等の都市があります。


No.17    (フランスの歴史)    2020/9/13

フランスの西南部ドルドーニュのヴェゼール渓谷にあるラスコー洞窟には馬、山羊、羊、野牛、鹿などが描かれています。20000年前のクロマニョン人によって描かれたものです。
古代ローマにおいては、フランスに当たる地域はガリアと呼ばれ中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持って渡来してきたケルト人が居住していました。カエサル(シーザー)の「ガリア戦記」などからもうかがえます。ローマの遠征を受けた後はいくつかのローマ風都市も建てられローマ化が進みました。
4世紀後半より始まるゲルマン人の移動に伴い、ゲルマン人の一派と言われるフランク人がガリアに定住します。481年クローヴィスがフランク諸族を統一してメロヴィング朝フランク王国を建国しました。その後はカロリング朝、西フランク王国、ヴァロワ朝、ブルボン朝と続き、1789年〜1794年のフランス革命を経て1804年ナポレオン1世が皇帝に即位しました。「ワーテルローの戦い」で破れるとルイ16世の弟、ルイ18世がフランス国王として即位しました。
1914年、第一次世界大戦では連合国としてドイツと交戦し、第二次世界大戦ではナチスドイツの侵攻によりフランス北部はドイツ、南部はイタリアによって占領されました。ノルマンデイー上陸作戦によってフランス本土には連合国が上陸し「パリ解放」が行われ、連合国の一員として常任理事国となり現在に至っています。


No.16    (オーストラリアの歴史)    2020/7/27

約5万年前のオーストラリア大陸は現在より海面が100m以上低かったために、ニューギニア島やタスマニア島を包含していて、ジャワ島やスマトラ島、ボルネオ島はアジアと地続きでした。
先住民アボリジナル(アボリジニ)はアジアから海を渡ってオーストラリアに到来したものともみられ、遺伝子の分析から広義のモンゴロイドに属するとみられています。
18世紀の後半、イギリスは先住民の迫害を伴う資源獲得や囚人対策としてこの地に入植しました。
1787年、フイリップ率いる第1船団11隻は1500名(内、流刑者780名)を乗せポーツマスを出港し、シドニー・コーブに到着しました。(1788/1/26)
牧羊業を推進し、漁業、金鉱業も盛んになり、19世紀にはゴールドラッシュをむかえました。
現在は石炭、鉄鉱石、金、食肉、羊毛、小麦等がオーストラリアの輸出産業の代表となっています。


No.15    (中南米大陸の歴史)    2020/5/8

中部アメリカ大陸の文明はサポテカ、オルメカ、プレペチャ、マヤ、アステカ文明に始まり、その文明はスペインの征服により終焉を迎えます。南部アメリカの文明はノルテチーコ、チャビン、インカ文明に始まりスペインの征服(16世紀)で「天然痘」の流行(天然痘ウィルス)により滅びました。
スペイン人コルテスは繁栄していた先住民族に暴虐の限りを尽くし先住民の1100万人の人口を100万人まで減らしました。
インカ帝国の首都はクスコ、ケチュア族がが築いた国で、文字を持たない社会、文明でした。インカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」からさらに1000m程高い3400mの標高にクスコはあります。スペイン人ピサロは先住民族のインカ帝国皇帝マンコ・インカの皇子トゥパック・アマルをクスコで処刑しました。
ブラジルの歴史はアジアからベーリング海峡を渡った人々がBC8000年頃にこの地に到達したことに始まり、原始的な農耕を営むトゥピ族(後にインディオと名付けられる)が原始共同体を形成していました。ポルトガル人到来直前の時点で先住民の人口は200万人と推定されています。
16世紀頃のポルトガル植民地時代には鉱物資源と砂糖黍栽培が盛んで黒人とインディオを利用した奴隷労働によるプランテーションが盛んでした。
ポルトガル領、アフリカのアンゴラから多くの黒人が奴隷として連行されました。
1922年摂政王子ペドロはサンパウロのイピランガ川の畔で「独立か死か」とのいわゆる「イピランガの叫び」を発し、ブラジルの独立が宣言されました。


No.14    (米大陸に渡った白人たち)    2020/3/6

「インディアンが約束を破ったことは一度もなかったし、白人が約束を守ったことも一度もなかった。」と彼らは言います。
1621年、英国の宗教弾圧から逃れるためにメイフラワー号に乗船したプロテスタントの一団が、北米大陸のプリマスに上陸しました。彼らは東海岸の厳しい環境の中で、25000年以上前からこの地に住んでいた、彼らがインディアンと呼ぶ、私達日本人と同じDNAを持つモンゴロイド系の人々に助けられ、入植の第一歩を踏み出しました。
彼ら(原住民)はジャガイモやトウモロコシの栽培方法を教え、アメリカで生活ができるよう様々な面倒を見てくれ、与えてくれました。しかし、英国政府はアメリカを流刑地として選び、本国に居ることが出来なかった人間や犯罪者、荒くれ者を入植させました。白人にとって「人間でない有色人種」は、獣と同じ扱いをされ、スポーツハンティングの的にされ、駆逐されました。
初代アメリカ大統領のジョージ・ワシントンはインディアン民族の絶滅政策を推し進め、彼らは奴隷としてプランテーションで酷使され、白人が持ち込んだ疫病にたおれ、女は子供までもが強姦、輪姦され、逆らう者は八つ裂きにされ、吊るされ虐殺されました。
1776年の合衆国独立宣言には「すべての人間は平等につくられている。創造主によって生存、自由、幸福追求の権利を与えられている。」とありますが、インディアン、黒人(奴隷)は「すべての人」には含まれていないのです。


No.13    (漢民族の歴史)    2020/2/2

河南省の二里頭遺跡はC14年代測定法では殷の建国に先行していることがわかっています。
『史書』に伝わる「夏王朝」の実在が裏付けされたのです。
良渚文化は稲作都市文明を形成し「長江文明」を育みました。
殷、周、漢と続く中国の歴史は秦の始皇帝の時代には 4000kmに及ぶ「万里の長城」に見られるように、北方の匈奴に対する戦いでした。
漢の時代、7代、武帝の時代には匈奴を破り、全盛期を現出し、後漢の時代になると「黄巾の乱」によって統治が減退し、曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉からなる「三国時代」に突入 します。
隋、唐、宋、明の時代を経て、満州(マンジュ)族が支配した清王朝が東北の瀋陽に築かれます。
英国とのアヘン戦争を機に敗北した清は仏、独、露からも「三国干渉」を受け、漢民族の孫文らの革命勢力が清朝打倒運動を広げ、1912年1月1日南京で「中華民国」が樹立されました。
毛沢東時代の「中華人民共和国」は共産主義化を推進し、一党独裁制へ移行し登小平の時代には一党体制を堅持しつつも市場経済を導入し、改革解放政策を進めました。「天安門事件」から江沢民が台頭し、胡錦濤、習近平と現在に至っています。


No.12    (ロシアの歴史)    2019/12/2

東ヨーロッパのスラヴ人居住地帯であったルーシの地に多 くの公国が興り、ウクライナ、ベラルーシなどで、ゲルマ ン人の東方への移動後、東スラヴ人と呼ばれる人々が森林 地帯で素朴な農耕生活を送っていました。
これらの国々があった地域はリューリクの属する部族ルス の名前に因んで「ルーシ」と呼ばれ「ロシア」という国名 のルーツになりました。
10世紀末にはキエフ公のウラジミール大公が東ローマ帝国 からキリスト教を受容し、国をあげて正教会の信徒となり ました。
13世紀にはモンゴル帝国の侵略によってモンゴル 帝国の支配下に組み込まれました。
17世紀にはロマノフ王 朝が興り、オスマン帝国と戦い、領土を黒海やクリミヤ半 島まで拡張し、ロシア革命を経て1922年ソビエト連邦が 誕生し、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」(民主的改革) を経て、1991年ロシア連邦が成立しました。


No.11    (アーリア人は…)    2019/10/22

アーリア人は「インド・ヨーロッパ語族」とも言われ、 カスピ海と黒海の北側の地域を原住地としていましたが BC2000年頃から寒冷化を避け大移動しました。
南はコーカサス山脈があるため、西と東へ向かいました。
西を目指した多数派は中東からヨーロッパへ、東を目指した少 数派はインドへ移動しました。
ギリシャに乱入したアー リア人はアカイア人と呼ばれ、さらに乱入したアーリア 人はドーリア人と呼ばれアカイア人を追い出しギリシャ に住み着いたドーリア人がギリシャ人と呼ばれるように なります。
戦争が好きで、アテネとスパルタの戦争のよ うに戦に明け暮れていました。
カイバル峠を越えインド の西北、インダス川流域のパンジャブ地方に侵入し、さ らにガンジス川流域に侵入した一行は先住民族のドラヴ イタ人を征服しながらBC1000年頃にはヴェーダの神々の 信仰からバラモン教が生まれ、ヒンドゥー教へと発展さ せカースト制の社会を形成しました。
イタリア半島周辺 にたどり着いたアーリア人はイタリック人と呼ばれ、ラ テン人→ローマ人となりました。


No.10    (グレートブリテン)    2019/8/22

グレートブリテン島にはBC900~500年頃にケルト民族 が侵入し、鉄器の文化が広まり、ケルト系の部族国家が 成立しました。
BC55年、ローマのユリウス・カエサル が侵入し、ローマ帝国時代のブリタニアはケルト系住民 の上にローマ人が支配層として君臨しました。
5世紀に はゲルマン人のアングロサクソン部族がグレートブリテ ン島の南部を征服します。
それぞれの地域は独自の歴史 性をもって分離していきます。
イングランドはゲルマン系のアングロサクソン人、スコ ットランドはケルト系のピクト人、ウェールズはケルト 系の分裂した小国家、アイルランドはケルト系の民族か らノルマン人の国へ。
15世紀初頭に始まった宗教改革は ブリテン島にも伝播し、「イギリス」が形成される要因 になりました。
アン女王の治世の1707年にイングランド とスコットランドの合同法が成立し「グレートブリテン 王国」として一体化しました。
18世紀の産業革命を経て ナポレオン戦争の勝利により覇権を確たるものとしまし た。


No.9    (後金から清へ)    2019/7/15

ヌルハチは後金の創始者で清の初代皇帝と言われています。
女真族の愛新覚羅出身で、マンジュシュリー(文殊菩薩)を信仰し、彼の肖像画には首に念珠が掛けられています。
ヌルハチによって統一された国はマンジュ国(満州国)と呼ばれるようになり、中国の東北地域を支配し、瀋陽城、遼陽城を攻め、これを獲得し、瀋陽に居を構えました。
1626年、明の領内に攻め入るために、「山海関」を陥落させました。
ヌルハチの死後、息子のホンタイジが即位し、1636年、満州において清王朝を建国します。
多民族国家である清のもとで、満州人は「八旗」と呼ばれる8つのグループに分けられた集団に編成され、清を支える軍人・官僚を輩出する支配民族となりました。
270年間の繁栄を築いた清王朝は1912年の辛亥革命で滅びるまで大陸を支配した最後の王朝です。
辮髪やチャイナドレスは元来、満州族の習俗です。


No.8    (大モンゴル帝国)    2019/6/22

オノン川の畔から身を起こしたテムジン(チンギス・ハン)は1206年、大モンゴル帝国を樹立しました。
子のオゴデイ、孫のクビライの代にわたり圧倒的な軍事力と莫大な資金で史上最大の帝国を手中にしました。
金朝・西夏を制圧し中央アジア・アフガニスタンをも制圧し、バトウの率いる軍団はロシア・東欧をも支配しました。
我が国も2度に亘りモンゴル軍に襲われました。
文永11年(1274年)10月5日対馬に8雙の船が現れ1000人もの兵士が馬とともに上陸し国府の地頭、宗助国率いる80騎の兵と対戦し助国の軍は惨敗、壱岐に侵入したモンゴル軍は1000余人を殺戮し、弘安4年(1281年)にも再来し博多湾まで侵入しました。
モンゴル帝国の指揮官はクビライ、鎌倉幕府の指揮官は北条時宗、10万余の元軍と、六波羅派遣軍6万の兵は暴風雨のため、激突することなく終決しましたが、風が吹いていなかったらどうなっていたでしょう。


No.7    (イスラム帝国)    2019/6/10

イスラム教の開祖ムハンマドの死後、4人のカリフ(イスラム国家の指導者)達が構築した国家は、初代、アブー=バルクの時アラビア半島のアラブ人を統一し、2代、ウマル・イブン・ハッターブの時、シリア、エジプト、イラク、イランまで兵を進め、アラブ人が多民族を支配する帝国を築き上げました。3代と4代のカリフは内部対立により暗殺され、シリア総督のムアーウイヤが自らカリフに就任し、大多数のムスリム(スンナ派)はウマイヤ朝の支配を承認し、イスラム帝国最初の世襲王朝となりました。
8世紀の半ばウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース家を指導者として行われた革命によりアッバース王朝が成立しイラクのバクダードを首都としました。
タラス河畔の戦いで唐軍を撃退すると、中央アジア、インドまで勢力を広げ、イスラム国家としては過去最大の領土を得ました。
アッバース王朝がモンゴル帝国によって完全に滅ぼされたのは1258年です。


No.6    (地中海のポリス)    2019/5/23

BC 8世紀にはギリシャ本土と小アジア西岸にポリス(都市国家)が成立します。
それは海岸に比較的近い平野の丘を砦として、祭祀の場所として麓の広場(アゴラ)を政治や経済活動の場として人々の居住する地域を城壁で囲んだ都市でした。
この時代にギリシャ、エーゲ世界には鉄器が普及し新しい社会の形態が作り出されました。
ポリスは独立の国家で、市民共同体であり、市民は守護神を祀り、共通の宗教意識を持ち、強い連帯感がありました。
アテネ、スパルタ、クレタ、ロクリス、マケドニア、テッサリア、アカイア等がそれです。28歳の時に訪れたクレタ島は、古くは「カンデイア」と呼ばれ、島全体が城壁で囲まれていました。
イラクリオンのオールドハーバーには今でもその名残が見られます。同族意識が非常に強く、ポリス間での戦争の最中でも 「オリンピアの祭典」が開催され、円盤投げや幅跳び等が行われ、ギリシャ人が最も好んだのは「パンクラス」という総合格闘技で、参加者は全員全裸で体にオイルを塗って戦いました。


No.5    (マヤ、アステカ文明)    2019/4/23

BC 1300年頃、中央アメリカでオルメカ文明が起こりました。
巨大な石で造られた人頭が残り、マヤ文明に大きな影響を与えました。
BC 500年頃になるとメキシコ南部のオアハカ盆地に神殿都市モンテ・アルバンが建設されました。
BC 200年頃には大ピラミッドがあるクイクイルコや巨大な宗教都市テオテイワカンが建設されました。
650年頃異民族に侵略され町は放棄されました。
BC 300年頃メキシコのユカタン半島にマヤ文明が栄えました。
パレンケ、ウシユマル、チチエン・イツツアetc. です。
マヤ文明はピラミッド型の神殿を築き、正確な暦を使っていました。
メキシコ高原のテスココ湖のメキシカ人は15世紀前半にアステカ帝国を建国しました。
トウモロコシ畑の広がるテスココ湖の街テノチテイトランには20万人が暮らしていました。
市場の脇には大神殿があり、祭壇が設けられていました。
1519年スペイン人コルテスはこの街を破壊し、アステカ最後の王、クアウテモツクを木に吊るし処刑しました。 (1525年)


No.4    (インドの歴史)    2019/4/23

BC2600年頃、インダス川流域にインダス文明が栄え、その後のモヘンジョダロ、ハラッパー遺跡に見られるような「城塞都市」が勃興します。
アーリア人の南下により、先住民族であっあドラヴィダ人が南方へ追いやられます。
インドの宗教にはバラモン教、ヒンドウ―教、仏教、ジャイナ教、etc. とありますが、アーリア人が作ったカースト制度下のバラモン教は民衆を支配するための宗教で、ヒンドウ―教はバラモン教から聖典を受け継ぎ土着の神々や崇拝様式を吸収しながら形成された多神教です。
インド東岸オリッサ地方の土着神ジャガンナートは白い肌、茶色い肌、黒い肌の神からなりまさに多民族の宗教となっています。
この街のプーリーでは「ジャガンナート祭」が盛大に行われていて、京都の「祇園祭」の起源とも言われています。
また、ガンジス川は「母なるガンガー」とも呼ばれ、ワニのクンピーラに乗る女神の崇拝があります。クンピーラ=宮比羅=金毘羅の信仰は日本でも金毘羅権現として祀られています。


No.3    (弓月(クンユエ)国)    2019/4/12

応神天皇の代(5世紀初)に弓月の君は多くの民を率いて日本に渡来し、波多(秦) 氏の祖となりました。
昔、中央アジア、バルハシ湖の南方に弓月国(クンユエコク)が在りました。
現在の新疆ウイグル自治区、伊寧(イーニン)付近です。
ウイグル語ではグルジャ。イリ地方の中心でもあるためイリとも呼ばれていました。
因みに第10代、崇神天皇の名はミマキイリヒコイニエで、纏向遺跡の付近(桜井市金谷)に居住していました。
任那の城(ミマキ)からきた大王です。
京都、広隆寺の東に小さな祠が在ります。
大酒神社です。弓月王を祀るこの神社は、日本に渡来した功満王が祖神を祀るために建立したものです。
蜂岡寺(広隆寺)は7世紀初に建立されましたが大酒神社は4~5世紀の創建だと思われます。
広隆寺の祭りとして行われる「牛祭り」は明治以前は旧暦9月12日の夜半に、大酒神社の祭りとして行われていました。
元来、この社は広隆寺の桂宮院に祀られていたのですが明治の神仏分離により現在の地に移健されました。


No.2    (ガウタマ・シッダールダ)    2019/2/22

2/15は釈迦の入滅日(涅槃会)でした。
シャーキア(梵語)は釈迦の出身部族であるシャーキア族、あるいはその領国名です。
釈迦の姓名はガウタマ・シッダールタです。
29歳の時シッダールタは王城を抜け出し、バッカバ仙人のもとで修行を重ね、35歳でピッパラ樹(菩提樹)の下に座し瞑想に入り悟りに達し、仏陀となりました。
彼の時代(BC500年ごろ )には孔子、ゾロアスター、ソクラテスなどが各文明圏に登場しています。
インドでカースト制度を批判するジャイナ教を創始したヴァルダマーナとともにシッダールタも同様にヒンズー教を否定することから始まります。
「生、老、病、死」に深い悩みを感じ16歳で結婚、男子をもうけたのですが29歳で家族を捨て、出家しました。
仏陀は「人生は苦である」と言っています。煩悩を捨て、瞑想により、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に達すると言います。
この釈迦仏教(小乗仏教)に疑問を呈したのが大乗仏教です。


No.1     (ギルガメシュ)    2019/2/13

「世界史をどこから始めるか」は難しい問題ですが、人類の歴史としては、文献のない時代は「先史時代」と言いますので、ここでは「歴史」と題していますので、文献等に残っているの頃から始めさせていただきます。
古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代の伝説の王、ギルガメシュは、かってウルク第一王朝第五代の王として君臨しました。
(BC 2600)「ギルガメシュ」という名はアッカド語で、「祖先の英雄」という意味です。
シュメールの最高神((天空神)アヌより知恵を授かったと言われ、その体の3分の2が神、3分の1が人間の、半神半人であったと言われています。
現在注目されている「ミトコンドリアDNA」の特徴が反映されています。
ミトコンドリアDNA は私達人間の体の肥満や癌の転移能に影響を与えています。
最初の人間は猿人から進化したのではなく、神が(地球外生命体が)造作したのでしょうか
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