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日本の歴史

No.21    (明治維新)    2021/4/10

明治4年(1871年)、倒幕の中心であった薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允らによって「廃藩置県」が実施され、不平等条約改正と西洋の諸制度を研究するために岩倉具視を正使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らを副使とする岩倉使節団を欧米に派遣しました。
徴兵令を導入し近代的な常備軍を作ろうとした大村益次郎でしたが、暗殺されその後は山県有朋に引き継がれました。明治9年(1876年)廃刀令が出され、士族の特権がなくなり不平士族の反乱(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱など)が起き、最大の士族の反乱「西南の役」が起きましたが政府軍に鎮圧されました。
「富国強兵」、「殖産工業」のスローガンの下官営模範工場が作られ、官営工場は民間に払い下げられ1890年頃から産業革命が進行し、工業化が進展しました。
これが一般的な明治維新の解釈ですが、江戸幕府がやってきた事を全否定し、神祇官は日本の寺という寺、僧侶、仏教の弾圧をしますが、これは日本の伝統文化の破壊そのものです。
「維新」はゆるやかな改革ではなく一種のテロリズムとも言えます。江戸時代に仏教、儒教、神道が並立してきた歴史を破壊し、神道だけが唯一の道だと強制し、天皇家が神道という嘘をでっち上げました。
奈良の東大寺を建立し、仏教を崇拝したのは聖武天皇で、比叡山に天台宗の寺院を作らせたのは桓武天皇です。
薩長藩閥政府は戊辰戦争から太平洋戦争まで戦争を繰り返し、自分達の私利私欲を拡大し財産をため込み好き放題やったとも言えます。江戸の大名屋敷を強奪し、官営工場を国税で作り、それをただ同然で岩崎弥太郎(三菱)、三井に払い下げました。日本の財閥は国民の財産を強奪してのしあがったのです。
公武合体の維持を望む孝明天皇をも葬り去り、14歳の新天皇を担ぎ上げ、自分達に都合の良い国家を作ったのです。その時に作り上げられた「神道」が今も天皇祭祀の根本となっています。


No.20    (江戸から明治へ)    2021/2/13

嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍、東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦隊4隻が江戸湾入口の浦賀に姿を現し、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡されました。この時、12代将軍の徳川家慶は病床に臥せており、国家の重大事を決定できる状態ではありませんでした。老中の阿部正弘は「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、ペリー一行の久里浜上陸を許し浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見しました。
ペリー退去から10日後に将軍、家慶が死去し、後継に家定が就任しましたが、病弱で国政を担えるような人物ではありませんでした。
半年後にペリーは琉球を経由し再び浦賀に来航しました。「日米和親条約」が締結され下田、函館の来航が許可されました。安政4年、阿部正弘が死去すると堀田正睦は松平忠固を老中に再任させましたがうまくいかず、その後の老中職の井伊直弼は朝廷の許可を得ないまま条約を結び、幕府に反対する尊皇攘夷運動が盛んになり、安政の大獄、桜田門外の変と発展し、長州藩は朝廷を動かして幕府に攘夷を約束させました。
長州藩の実権を握った桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の実権を握っていた西郷隆盛と大久保利通は坂本龍馬の仲立ちで幕府をたおすことを確認し「薩長同盟」を結びました。世の中の変化を知った15代将軍の徳川慶喜は「大政奉還」を行いました。
西郷隆盛や岩倉具視は朝廷を動かし、「王政復古の大号令」を発しました。旧幕府の軍は京都の鳥羽、伏見で新政府軍と戦い敗れ、江戸城の明け渡しが行われ、260年続いた江戸幕府が滅亡しました。
明治維新に際して江戸が東京と改称され首都として定められました。
関ヶ原の戦いで東軍(家康方)に敗れた西軍の毛利(長州)や島津(薩摩)出身の人物が新政府を牽引したのは歴史の皮肉でしょうか。


No.19    (元禄時代)    2020/12/3

元禄時代は1688〜1704年の時代ですが、日本史上において日本人の人口の世界シェアが最高となり、世界の20人に1人(5%)が日本人でした。鎖国の体制下にあっても、長崎貿易を許可されたオランダ人によって様々な物がもたされました。
日本独自の文芸の発達で連歌、俳諧、小説、戯曲も多く作られ、芸能や音楽も独自の文化が発達し歌舞、狂言、人形浄瑠璃、また能や謡曲も発展しました。絵画も狩野派、土佐派など隆盛を極め、工芸、染色の分野でも発展を遂げ、建築では長谷寺、東大寺、善光寺、萬福寺等々が再建されました。
元禄文化は文治政治のもとで社会が安定し、経済が目覚ましく発展し、三都(江戸、京都、大坂)を中心とする都市が発展し、これまでの公家、武家といった上層階級の物だったものが三都の町人やその近郊の富農が享受し、個人の内面性を表現する成熟した文化となりました。
豊かな経済力に支えられた元禄文化は現在の私達に何を提言してくれるのでしょうか。戦乱のない今の時代、国家の指導者達はかって日本に存在した元禄時代を再現出来るのでしょうか。未来を具現する叡知のある指導者はいないのでしょうか。


No.18    (徳川吉宗の時代)    2020/9/13

徳川御三家の紀州藩2代藩主、徳川光貞の4男として生まれ、家老の加納政直のもとで育てられ、江戸の紀州藩邸に移り住みました。兄たちが早逝したため、22歳で紀州徳川家5代藩主に就任しました。
享保元年(1716年)、7代将軍、徳川家継が8歳で早世し、天英院(家宣の正室)や月光院(家継の生母)の指示によって8代将軍に就任しました。
江戸町火消しを設置、目安箱の設置、小石川養成所の設置など「享保の改革」と呼ばれる改革を行い、「生類憐れみの令」を廃しました。
吉宗は大奥の整備にも乗り出し4000人から1300人まで一気に人員削減しました。
延享2年(1745年)将軍職を長男の家重に譲りますが、自分が死去するまで大御所として実権を握り続け吉宗以後、14代まで紀州家が将軍の職を勤めました。
将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)享年68歳で没しました。死因は脳卒中と言われています。
「総ての人の上に立つときは、愚なるも智ありさまに見え、下にいるものは、智あるも愚に見ゆるものなり」と。


No.17    (徳川綱吉の時代)    2020/7/27

徳川3代将軍、家光が死去すると長子の家綱が4代将軍の宣下を受けますが、11歳で幼少のため、叔父の保科正之や大老の酒井忠勝、老中の松平信綱らの補佐により慶安の変などの危難を乗り越えますが40歳で死去し、家綱に跡継ぎとなる男子がなかったので、館林藩主となっていた徳川綱吉が5代将軍の宣下を受けました。
大老の酒井忠勝を廃し、堀田正俊を大老としました。しかし、堀田正俊が若年寄、稲葉正休に刺殺されると綱吉は以後、大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用しました。
また、悪政と言われる「生類憐みの令」は母である桂昌院(玉)の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものと言われています。
嫡男の徳松が死去した後の将軍後継ぎ問題では、綱吉の娘(鶴姫)の夫、徳川綱教(紀州徳川家)が候補にあがっていましたが、徳川光圀の反対で6代将軍は甲府徳川家(徳川家宣)に決定します。
綱吉は麻疹(はしか)により64歳で死去します。「生類憐みの令」は自分の死後も政策を継続するよう言い残しましたので、8代将軍、吉宗の時代に廃止されました。


No.16    (徳川家光の時代)    2020/5/28

二代将軍、秀忠が54歳で寛永9年(1632)1月24日に死去し、増上寺に葬られると、長子の家光が28歳で三代将軍に推挙されました。御三家(尾張家=義直、紀伊家=頼宣 、水戸家=頼房)を後ろ楯とし、家康の落胤と言われる土井利勝が老中、大老として 補佐し、柳生宗矩が将軍家兵法指南役として家光のご意見番として控えます。
また、南光坊天海、乳母の春日局が家康の時代から君臨しています。特に、明智光秀の重臣、斎藤歳三の娘(お福)は春日局として、家康が孫の家光のために乳母に選定した人物で、家光のために大奥を創設しました。
家光は弟の駿河大納言、慶長の自害、「島原の乱」などを乗り越え、東照宮の再建 、上洛し後水尾天皇ヘの拝謁などをなし遂げました。家光の代までにとられた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われました。
春日局、天海、利勝、宗矩が相次いで鬼籍に入ると、家光は自らの判断で難局を乗り越えていくのですが、慶安4年(1651)正月3日、鷹狩りに出かけた家光は病状を悪化させ、数え年11歳の家綱に年賀の代理をさせその年の4月20日に死去しました。
「鏡には知らぬ翁の影とめて、もとの姿はいず地ゆくらん」享年48歳


No.15    (天海と崇伝)    2020/5/14

南光坊天海は陸奥国、会津郡高田の出身、蘆名(あしな)氏の出目とされていますが、「俗人の事人のとひしかど氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、自らの出目を弟子達に語らなかったと言われています。
足利将軍落胤説もあり、果ては姿を変えて生き残った明智光秀であるとも言われています。
徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策、宗教政策に深く関与しました。
天海が喜多院(川越)の住職となったのは慶長4年(1599)で、家康の死後、家康の「神号」をめぐり以心崇伝と争いますが崇伝の主張する「明神」、天海の主張する「権現」が検討され家康の神号は天海の主張する「東照大権現」と決定され家康の遺体は久能山から日光山に改葬されました。
寛永20年(1643)に108歳で没し、朝廷より「慈願大師」号を追贈されました。
以心崇伝は南禅寺の金地院に住したことから金地院崇伝とも呼ばれて、室町幕府、幕臣の一色秀勝の次男として京都に生まれ徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案、外交、宗教統制を引き受け「黒衣の宰相」の異名があります。
「大坂の陣」の発端にもなった方広寺の鐘銘事件にも関与したと言われています。
元和4年(1618)には将軍秀忠から江戸城北の丸に約2000坪の屋敷を拝領し「金地院」を建立しました。
幕府が僧侶の最高位が着る紫衣を規制したにも関わらず後水尾天皇が従来の慣例通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた「紫衣事件」により、後水尾天皇が退位し、この事件は幕府の権威を決定づける事とになり、以降300年に及ぶ江戸幕府の法による支配を確立させました。寛永10年(1633)江戸城内の金地院で死去しました。(享年65歳)


No.14    (大坂の陣)    2020/2/18

関ヶ原の戦いの後、1603年、家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。家康は豊臣秀頼が臣下の礼を取るよう高台院(寧々)を通じて淀殿に要求しますが、淀殿は拒否しました。
1614年、方広寺の鐘銘事件を機に徳川と豊臣の対立は決定的となり、大野治長の母、大蔵卿局(淀殿の乳母)が駿府へ派遣されましたが「大坂冬の陣」が勃発しました。
徳川軍は英国から購入したカルバリン砲やセーカー砲による攻撃で豊臣軍を圧倒し、本丸に打ち込まれた砲撃で、侍女8人が爆死すると淀殿は和議に応じ、和議は京極忠高の陣において家康側近の本多正純、阿茶局(家康の側室)と豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹、常高院(お初)との間で行われてました。
和議成立後、家康は駿府へ秀忠は伏見へ戻りますが、1615年、大坂に不穏な動きがあるとして家康は駿府を出発、名古屋へ向かい京の二条城で軍義が開かれ、「大坂夏の陣」が勃発しました。道明寺・誉田合戦、八尾・若江合戦、天王寺・岡山合戦で敗れた豊臣方は千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らと共に籾蔵の中で毛利勝永に介錯され自害しました。


No.13    (関ヶ原の戦い)    2020/2/6

秀吉の死後、豊臣政権内部の政権抗争に端を発した戦は毛利輝元を総大将とし、石田三成、宇喜多秀家らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍が美濃国、関ヶ原において激突しました。
当日、関ヶ原は濃霧に包まれていました。東軍の井伊隊が西軍の宇喜多隊に向け攻撃を開始しました。福島隊も宇喜多隊に発砲し、戦端の火蓋が切られました。
石田隊と黒田、細川、加藤隊、大谷隊と藤堂、京極隊が激戦を重ね、家康は桃配山から前線の陣場野に陣を移しました。
三成は松尾山の小早川、南宮山の毛利に向け総攻撃の狼煙を上げましたが、吉川隊が家康と内通しており、毛利隊の参戦を阻みました。小早川隊も家康と内通していたので、西軍の大谷隊に攻撃をかけました。
島津隊は自ら攻撃を加えることもなく、家康の本陣前を突破し、牧田を経て伊勢街道方面に脱出しました。伊吹山方面に逃れた石田三成は近江に向かい、母の故郷である古橋村に身を隠しますが、捕らえられ、京の六条河原で処刑され、三条大橋に晒されました。


No.12    (豊臣から徳川へ)    2019/12/6

清洲会議(1582年)を経て、翌年の賤ヶ岳の戦いで天下を取 った秀吉は徳川家康を上洛させ、臣従させようとしましたが、従わない家康に対して生母の大政所を人質として送り 臣従を誓わせました。
越後の上杉景勝、安芸の毛利輝元らも秀吉に臣従しました。
薩摩の島津を屈服させ、北条氏を攻略し、伊達、最上氏にも臣従を誓わせ日本全国に威令が及ぶ日本の統一政権を樹立しました。
全国統一を達成した秀吉は文禄元年(1592年) 明の征服を目指し朝鮮に出兵しましたが、秀吉の死によって対外戦争 を継続できなくなり、加藤清正、福島正則ら武功派と石田 三成、小西行長らによる文治派の対立が表面化し、「関ヶ原の戦い」後、慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍に 任命されました。
慶長20年(1615年)大坂の陣の終結で実質 徳川の天下となりました。


No.11    (織田信長の時代)    2019/10/22

室町幕府の勢力が衰え、世は群雄割拠の時代となり、各地 に守護大名が台頭してきました。
吉法師は天文3年(1534年)尾張の地方領主、織田信秀の子と して生まれ、1560年、駿河の戦国大名、今川義元を「桶狭間の戦い」で撃破し、尾張、美濃の二カ国を領する戦国大名となりました。
朝倉義景、浅井長政を破り、比叡山を焼き討ちし、将軍、 足利義昭をも京から追放しました。
石山本願寺との戦にも 決着をつけ、京で大規模な「馬揃え」を行いその勢威を誇示しました。
しかし、「易姓革命」の言う「天の意」にそ ぐわなかったのか、本能寺の露と消えました。
満48歳で没 した信長は信長旧臣の太田牛一が著した「信長公記」によ ると、ルイス・フロイスから聞かされた「七色に変化する ヨーロッパの海を見たかった」と言ったとも。
「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢まぼろしのごとく なり……」


No.10    (応仁・文明の乱)    2019/8/28

室町幕府の将軍の権力基盤は脆弱で、細川、斯波、畠山の 三管領の影響を強く受けていました。
家督相続の方式が決 まっていなかったので、将軍家、守護大名家の後継争いが 発生しました。
畠山氏、斯波氏の家督争い、足利義政の後継争いから、 細川勝元と山名宗全の勢力争いに拡大しました。
勝元が義政の弟、義視の後見人に、宗全が義政の子、義尚 の後見人になり、幕府の二大実力者が将軍家の御家騒動に 介入する形になりました。
1467年畠山政長は自宅に火を放 ち兵を率いて上御霊神社に陣を敷きました。
畠山義就側は 千本釈迦堂から出兵し、政長を攻撃しました。 「百々橋の戦い」、「相国寺の戦い」と続き、11年に及ぶ 戦乱も、宗全、勝元が亡くなると尻窄みで終結し、義政の 子、義尚が9代将軍となります。
幕府は領地や兵力も殆ど 持たないまま100年が経過し、織田信長の台頭により終焉 を迎えました。


No.9    (足利尊氏の時代)    2019/7/15

鎌倉幕府の後家人、足利貞氏の次男として生を受けた又太郎は貞氏の正妻(北条顕時の娘)の子、高義が早世したため嫡子として15歳で従五位を叙し治部大輔に任ぜられ、元服し、「高氏」と名乗りました。
母親は側室の上杉清子です。
後醍醐天皇の命により、六波羅探題を攻略し、鎌倉幕府を滅ぼしました。
鎌倉の残党が起こした「中先代の乱」を鎮圧し、鎌倉に留まりますが、天皇との関係が悪化し南北朝の対立となります。
光明天皇を擁立し、征夷大将軍に任命され「室町幕府」を樹立します。
弟の足利直義と二頭政治を行いますが、執事の高師直と直義との対立で「観応のじょう乱」が勃発し、両名を失うことになります。
その後、直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで京都二条万里小路第で死去しました(54歳)。
墓所は等持院です。尊氏の死から100日後に孫の足利義満が生まれています。


No.8    (源氏の興亡)    2019/6/22

嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や、清和天皇から分かれた清和源氏がありますが、家格が高いのは村上源氏とされています。
武家源氏として名を馳せたのは源満仲からの摂津源氏、源義家からの河内源氏、また、宇多源氏の中で近江を基盤とした佐々木氏は近江源氏です。
源氏の流派は21流あるとされています。
後三年の役(1083年)を起こした源義家、保元平治の乱の源義朝、源為義などが名を馳せていますが、鎌倉幕府を開いた源頼朝は源義朝の三男で、義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は伊豆国に流されますが、北条氏の後ろ楯で源義仲、平家、義経をも倒し、奥州藤原氏も滅し、1192年、征夷大将軍に任じられます。
2代の頼家、3代の実朝は殺害されてしまい、執権、北条氏の天下となります。
頼朝も落馬が原因で亡くなったと言われていますが、北条氏による暗殺(水銀による毒殺)説もあります。


No.7    (平氏の盛衰)    2019/6/13

平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流があります。
「平」という名称の由来は桓武天皇の都、「平安京」に因み、平(多比良)と名付けられました。東国には武家平氏、上総の平高望、下総の平将門、常陸の平貞盛などが良く知られています。
時代が下がり平氏政権で台頭した平清盛は伊勢平氏です。
これを倒した源頼朝を支えた鎌倉幕府の執権、北条氏は高望王流、桓武平氏の末裔です。
平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼びます。
伊勢平氏の平清盛は西国を制し、中央政権を牛耳、これに抗した河内源氏流の坂東源氏、源頼朝が平氏を追討し、東国に鎌倉幕府をを開きますが、後醍醐天皇の意向を受けた新田義貞、足利尊氏が坂東平氏に乗っ取られた鎌倉幕府を倒し京都に室町幕府を開きました。


No.6    (藤原氏の時代)    2019/5/23

奈良の春日大社を氏神とする藤原氏は中臣鎌足が「乙巳の変」により政治の中枢に入ったことから頭角を現し、鎌足が亡くなると大織冠と藤原の姓を天智天皇より賜ったことにより、鎌足の嫡子、藤原不比等が権力を持ちます。
不比等の子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂により更に強固なものになります。
四子政権時代には律令財政が確立され、遣新羅使の派遣や東北遠征等が行われました。
四兄弟は 737年、天然痘の流行で相次いで病死します。
平安時代になると藤原良房、基経親子による摂関政治が行われ、道康親王(文徳天皇)が即位すると娘の明子を入内させ、明子の子、惟仁親王(清和天皇)を9歳で即位させます。
平氏の祖となる天皇ですが、清和天皇の血を引く平氏のために平安時代が閉じられたのは歴史の皮肉でしょうか。


No.5    (蘇我氏の時代)    2019/4/23

記紀では武内宿禰の後裔と記されている蘇我氏ですが、名前が出てくるのは6世紀中期の蘇我稲目からです。
南河内郡河南町須賀の土着豪族で、須賀=蘇我とされていますが、橿原市の新沢千塚古墳126号墳から出土したローマングラスとトンボ玉は日本では大仙古墳とこの古墳のみです。
この古墳は蘇我満智の墓とされ、同様の古墳は朝鮮半島の古代新羅の都、慶州(キョンジュ)にあり、同様のローマングラス等が出土しています。
古代ローマとの交流が見られ、新羅の古墳と蘇我氏の古墳の類似性から蘇我氏のルーツは新羅にあるとも考えられます。
蘇我満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿と続く蘇我氏の奔流は「乙巳の変」で途絶えるのですが、各務原市蘇原地区に残る蘇我倉山田石川麻呂の墓とされるものもあり(大阪の太子町にもある) 、蘇我氏の子孫は健在です。私の高校時代の知人にも「蘇我さん」がいました。


No.4    (大伴金村から蘇我氏へ)    2019/4/12

第25代、武烈天皇は「世嗣ぎなく世を去る」と記され、次の天皇を物部麁鹿火、大伴金村ら群臣が協議し、越前の三國から男大迹王(おうどのおおきみ)を迎え、大王としますが、樟葉宮→筒城宮→乙國宮と都を移し、やっとのことで玉穂宮(桜井市池之内)に入ります。
放任状態になっていた朝鮮半島への軍事、外交を引き締め、新羅と手を組んだ筑紫国造、磐井を討ち平らげました(538年)。
継体天皇の子、安閑、宣化と続き、継体と手白香皇女の子、欽明天皇の時代には物部氏と蘇我氏が覇権を争い第31代、用明天皇の時代には、物部守屋を蘇我馬子が滅ぼしました。
蘇我氏が実権を握ったこの時代には覇権を失った朝鮮半島の任那(みまな)再興への足掛かりとして2万余の軍を筑紫に置き、使を新羅と任那に覇権しましたが任那の再建は出来ませんでした。


No.3    (倭の五王)    2019/3/12

倭の五王に関する記事が、中国の書物、『宋書』・『南斉書』・『梁書』に記されています。
永初2年(421)倭王讃に除授を賜う……、讃死して弟珍立つ……、倭国王済使を遣わし奉献す……、倭国世子興を安東将軍・倭国王に徐す……、興死して弟武立ち……。
讃は履中天皇、珍はは反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定されています。
宋の時代は倭王が新羅、百済をおさめていた事が記されているのです。
河内平野に残る巨大古墳の存在は確かにこの地に王権があった事を物語っています。
当時は大坂湾が内陸部まで入り込み、大陸から大坂湾に入った人々は前に聳える巨大古墳(大仙古墳)を見てどう思ったでしょうか。
クフ王ピラミッド、秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称され、墳丘長さ525m、高さ35.8mを誇ります。


No.2    (近江王朝)    2019/2/22

第11代、垂仁天皇の時代は、纏向珠城(桜井市金谷)に都をおき、皇女の倭媛は伊勢の五十鈴川のほとりに祠を建て、天照大神を祀ったと言われています。
また、皇后の日葉酢媛が没した時には野見宿禰の進言により、殉死に代えて、土偶を葬り、これが埴輪の起源だとも言われています。
12代、景行天皇の時代は自ら九州の熊襲征伐に出征し、皇子の日本武尊を東国の蝦夷討伐に当たらせています。
13代、成務天皇の時は、志賀高穴穂(大津市穴太町)に都をおき、武内宿禰を大臣として、政務を総括させました。
『日本書記』に「国郡に造長を立て県邑に稲置をおき楯矛を賜ひて、もって表となす……」とあります。
14代、仲哀天皇の時代には、息長宿禰の娘、息長足媛(神功皇后)を皇后とし、熊襲を後援する新羅を討つために海を渡ったとあり、4世紀の倭國の様子が記述されています。


No.1    (崇神天皇)    2019/2/13

2月11日は『建国記念の日』でした。
BC 660年1月1日、初代天皇とされる神武天皇が即位した日を新暦に換算し、1966年(S41)に定められ施行された『祝日』です。
戦前は『紀元節』と言われていました。
『日本の歴史』は、実在したであろうと思われる第10代、崇神天皇の時代から始めます。
この天皇は御肇國(はつくにしらす)天皇とも呼ばれ、磯城瑞籬宮(桜井市金谷)に皇居を構えました。
三輪山の麓に3世紀頃に統一国家が作られたと思われます。
考古学的には「纒向遺跡」が在り、出土した土器の約15%が他の地域で作られた(南関東、北陸、山陰、西部瀬戸内海)ものです。
これは政治や経済の中心がここにあり、他の地域との交流があったことを証明しているのです。
また、ここでは大量の桃の種子が出土しており(約2800個)、祭祀に使用されたものと思われます。
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